空海の真筆・拓本
空海の真筆・拓本について発表する大柴研究員=和歌山県伊都振興局

 ◇空海の真筆・拓本か 大柴研究員「楷行草」など究明

 日本三筆の一人である弘法大師・空海(774~835)の嵯峨天皇に宛てた真筆・書簡を伝える拓本が確認できたとして、6月6日、高野山大学密教文化研究所(和歌山県高野町)の大柴清圓(しょうえん)研究員(44)が、和歌山県伊都振興局で報道陣に発表した。

 この貴重な拓本は、江戸時代中期の制作で、四天王寺大学恩頼堂(おんらいどう)文庫(大阪府羽曳野市)が所蔵。とくに空海の書の研究第一人者で、高野山真言宗総本山・金剛峯寺の静慈圓(しずか・じえん)寺務検校執行法印(じむけんぎょうしぎょうほういん)は、「この素晴らしい筆跡から見て、空海の真筆・書簡の拓本に間違いなく、歴史的な発見だと思います」と、その発見・確認を讃えている。

弘法大師、奉謝恩百屯綿兼七言詩詩一首幷序
「奉謝恩百屯綿兼七言詩詩一首幷序」の冒頭部分=四天王寺大学恩頼堂文庫・所蔵

 この書簡は、横の長さ239・9センチ、縦の幅27・8センチの巻紙。空海が嵯峨天皇から100トンの綿(めん)と、七言詩を与えられた際、その感謝の気持ちを込めた漢詩文と和韻詩(わいんし)を書いて返礼した「奉謝恩百屯綿兼七言詩詩一首幷序(ほうしゃおんしひゃくとんめんけんしちごんししいっしゅならびにじょ)」である。

 その書簡内容は、空海の愛弟子の真済(しんぜい)が、常に空海の隣で、空海の書跡を丹念に書き写し、編纂したとされる、漢詩文集「性霊集(しょうりょうしゅう)」巻第三に記されている。但し、その真筆・書簡の原本は現在、発見されていない。

 拓本とは、原本(真筆)上に油を染み込ませ、半透明にした紙を載せて、文字の輪郭をなぞった後、その紙を板木に載せて彫るという、極めて真筆・原本に近いしろもの。

 今回確認された「性霊集(しょうりょうしゅう)」巻第三の拓本は、専門家の紙質年代判断から、当時まだ空海の真筆・書簡が存在していた、江戸時代中期に制作されたものらしい。

 その中身、例えば和韻詩を見ると、「方袍久苦行雲山裏、風雪無情春夜寒。五綴持錫観妙法、六年蘿衣啜蔬飡。日與月與丹誠盡、覆瓫今見堯日寛。諸佛威護一子愛、何須惆悵人間難」とあり、その読み方は、「方袍(ほうほう)苦行する雲山の裏、風雪情無くして春の夜寒し。五綴持錫(ごていじせき)して妙法を観じ、六年蘿衣(らい)して蔬飡(そさん)を啜(らく)ふ。日と與(とも)んじ月と與(とも)んじて丹誠盡(つ)くし、覆瓫(ふくぼん)今堯日(ぎょうじつ)の寛(ゆたか)なるを見る。諸佛威護(しょぶついご)して一子の愛あり、何ぞ須(すべから)く人間(じんかん)の難を惆悵(ちゅうちょう)すべき」と、若かりし空海の心情がしたためられている。

 今回の拓本を「空海の真筆・書簡」と判断した理由は、その書体が空海らしい楷書、行書、草書の雑書体で構成され、龍爪書(りゅうそうしょ=龍の爪のように先の尖った筆勢)や、蠆尾書(たいびしょ=サソリの尾の跳ね上がったような筆勢)が幾つか見られること。

 天皇に関する文字は、必ず行頭に置くという「平出(へいしゅつ)」や、その文字の前に一字分のスペースを設ける「闕字(けつじ)」などを心掛けながらも、さすがに「和韻詩幷序」には3か所の「弘法も筆の誤り」がある。

「方袍久苦行雲山裏」では、七言詩なのに八言詩になっており、空海は「方袍久苦」まで書いた瞬間、天皇に対し、「久しく苦しむ」という表現の行き過ぎを感じたらしく、「久」の字のわきに「取り除く」という意味の墨点(ぼくてん)を打って、その代りに「苦」の後に「行」をやや小さく入れて「苦行」と変更。
 さらに他の文の後尾に、そのまま続けて天皇の文字を入れたり、書き忘れた「奉」の文字を小さく書き添えたりしている。

 真済は「性霊集・序」の言葉で、「夫れ其(大師)の詩賦哀讃の作、碑誦表書の制、遭う所にして作(な)し、草案を假らず。纔(わづ)かに了(お)はって競い把(と)らざれば、再び之れを看るに由(よし)無し」=大師が下書きをせずに書簡を書いて、手元に控え文を残さなかったから、すぐに書き写させてもらえなかったら、二度と見る機会はなかった=と表現。

 加えて「性霊集」には制作年代が記されていないが、今回の「奉謝恩百屯綿兼七言詩詩一首幷序」の末尾には、弘仁五年(814)三月一日」と記され、空海の真筆・書簡の可能性約100%を裏付ける形となった。

 この頃の空海は、留学先の唐(中国)から帰国し、京都の高雄山寺(現・神護寺)で修業中。嵯峨天皇との親交を賜り、弘仁7年(816)に高野山を開創、日本仏教の一大拠点となる。

大柴清圓研究員

 大柴研究員は「この拓本により、空海が即興で自由自在に書簡を書いたことがわかり、感動しています。また、たとえ間違えても書きなおさず、墨点を打つなどして、嵯峨天皇に送っていたこと。それを空海の隣で必死で書き写していた真済の功績は誠に大きいです」と感想を述べ、「この拓本はさまざまな角度から調査研究した結果、空海の真筆・原本のものと確信しています」と話した。

 静法印は「空海ならではの、見事な筆遣い。その真筆・拓本に間違いないでしょう。これは歴史的な発見だと思っています」と讃えた。
橋本ニュース 2018年6月7日 木曜日

※平出闕字式(平闕字)=文中に尊敬すべき語がある場合のシナ風の遣り方。大宝令の公式令(くしきりょう)に規定されている。
 さらに敬意を表する時の檯頭(たいとう)式(=行を改めて文頭に置く)がある。
例)
……………………………………(改行)
今上陛下(檯頭)……………………………………

        *

 ◇弘法大師、実際に“筆の誤り” 大学所蔵の「拓本」で3か所判明

 大阪の大学に所蔵されている史料が、弘法大師の直筆を写し取ったものである可能性が高いことがわかりました。そこには、本当に「筆の誤り」があるそうです。

 平安時代初期、高野山を開いた弘法大師空海。真言宗の祖として知られていますが、傑出した書家でもありました。その素養の高さを示す新たな史料が今年、大阪で確認されています。

 羽曳野市の四天王寺大学に所蔵されていた「拓本」。筆跡などから、弘法大師の直筆を版木で写し取ったものである可能性が高いということです。

 京都にいた弘法大師はある時、嵯峨天皇から服を織るための綿と漢詩を贈られます。今回の拓本に書かれているのは弘法大師が即興でお礼と返答の詩を書き上げ、使者に託したものだとみられていますが、そこに実は…『弘法も筆の誤り』が?「どんな名人でも失敗することがある」ということわざ通り、本当に誤りがあったというのです。

「闕字(けつじ)を置かないといけないのに忘れている」(高野山大学密教文化研究所 大柴清圓研究員)

 天皇に関係する言葉の前で文字を空ける「闕字」という用法を忘れていたり、「奉」という字をあわてて書き加えていたり…。他にも七言詩なのに、8文字になっている句がひとつあります。それでも、この拓本の価値は揺るがないと専門家は言います。

 「即興で、下書きなしで書いている。ハイレベルな文人間のやり取りが平安初期にあったんだと」(大柴清圓研究員)

 拓本では、一気に書き上げたとは思えない高度な技法を随所に見ることができます。竜の爪のように先を尖らせる書き方、「龍爪」。天皇に関係する言葉の上に文字が来ないようにあえて改行する「平出」。さらに、同じ文字でも楷書体、行書体、草書体を使い分けています。そこには弘法大師とともに「三筆」と称された嵯峨天皇への敬意が込められているといいます。

 「嵯峨天皇は書に対し興味があることも弘法大師は知っていますし。だから、あえてこういうふうに色々な鑑賞に堪える文字を使って贈っている。文字で魅せるんです」(大柴清圓研究員)

 「筆の誤り」は、天才同士の交流から生まれた産物だったのかもしれません。
MBSニュース 6/21(木)