※現在、中国政府からの公式文書2枚、及び中国政府発行の地図(1969年)の存在により、尖閣諸島は日本の領土であると確認されている。

●尖閣諸島――魚釣島、久場島、大正島、北小島、南小島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬

※以下、2016/01/19のブログエントリーの再掲です。





  尖閣諸島(石垣市登野城)を行政区域とする石垣市は14日、「尖閣諸島開拓の日」式典を石垣市民会館中ホールで開いた。中山義隆市長は尖閣諸島に関する歴史的資料について、「多くの歴史的資料が市内にある。領土を守り、尖閣を広く正しく知ることが必要。国内外に情報発信する尖閣資料館の建設をお願いしている」とあいさつした。同式典は今年で6年目。230人が出席した。

 また、中山市長は頻ぱんに領海侵入する中国公船と対峙している海上保安庁の警備強化に感謝。太平洋戦争末期の「尖閣諸島戦時遭難事件」の犠牲者に対しては哀悼の言葉を述べた。
八重山日報 2016年1月15日



※「中国政府は」尖閣海域で石油資源が確認される1969年5月まで尖閣諸島を日本領土と認めていた」
(中華人民共和国の国家測絵総局1969年発行地図にも明記されています)

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※尖閣諸島開拓の日
 尖閣諸島開拓の日(せんかくしょとうかいたくのひ)は、沖縄県石垣市が条例により定めた記念日。1月14日がこれに定められた。尖閣諸島の日や尖閣の日とも呼ばれる。

 2010年12月17日に尖閣諸島開拓の日を定める条例案が可決されたことにより定められた。沖縄県石垣市の尖閣諸島は、1895年(明治28年)1月14日に日本政府によって日本領への編入を閣議決定されており、これを記念して「尖閣諸島開拓の日」とした。

 条例可決に先立つ2010年11月27日には中国政府から石垣村長豊川善佐に贈られた尖閣諸島における中国人漁民遭難救助の感謝状が発見され、石垣村漁民へ宛てた感謝状と合わせて2枚の公文の現存が確認された

2011年1月14日におこなわれた式典には、石垣市民や平沼赳夫、下村博文などの国会議員など、約300人が出席した。石垣市長・中山義隆は式辞で「尖閣諸島は紛れもなく市の行政区だと、あらためて強く全世界に発信したい」と述べた


●1920年5月20日中華民国駐長崎領事から「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」で中国人遭難者を救助したとして沖縄県石垣村の漁民へを送られた感謝状。
Ishigakijima1920


※尖閣諸島戦時海南事件
 太平洋戦争末期の1945年7月に日本の小型船2隻がアメリカ軍機の攻撃を受け、無人島だった尖閣諸島に漂着した事件。約50日後に救出されたが、戦闘と飢餓などにより50人以上が死亡。
 石垣島から台湾へ民間人を疎開させる途中に遭難したもので、「対馬丸」以外に沖縄県からの疎開船が撃沈破された数少ない事例である。台湾疎開石垣町民遭難事件、あるいは遭難船名に由来して一心丸・友福丸事件とも呼ばれる。

※与那国島 海底地形(古代遺跡?)
 沖縄県八重山諸島与那国島南部の新川鼻沖の海底で発見された海底地形である。
 人工的に加工されたとも考えられる巨石群からなることから、海底遺跡と考える説もあり、この立場からは与那国海底遺跡、与那国島海底遺跡とも呼ばれる。

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与那国海底遺跡博物館