渋沢栄一
「日本の鉄道網のほとんどを築いた“神様”」渋沢栄一

 何でもかんでも鉄道に結びつけて話をすると、「これだから鉄道ファンは……」と言われそうである。けれど、さすがに今回ばかりは少しばかり語ってもいいだろう。4月9日に発表された紙幣の刷新。そこで渋沢栄一が新しい1万円札の肖像になることが明らかになったのである。

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 渋沢栄一の事績や人物像についてはほうぼうで語られているのでここで詳しくは触れない。
 簡単に言えば、埼玉の豪農の家に生まれて一橋家に仕え、幕臣を経て明治時代には第一国立銀行など500以上もの会社の設立に関わって実業界の“ドン”として活躍した偉人である。で、ここで鉄道ファンとして取り上げたいのが、渋沢の起こした“500以上の会社”について。その中には、実に多くの鉄道会社が含まれているのだ。

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 ◇北海道から九州まで「私鉄」を作りまくる

 まず第一に渋沢が関わった鉄道会社として取り上げたいのは、日本鉄道という会社。
 日本鉄道は1881年に設立された日本初の私鉄事業者である。今では存在しないのでピンと来ないかもしれないが、現在の東北本線や高崎線、さらには山手線の一部までを建設、運営していた。

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 昨今の“私鉄”というと、いくら大手であっても特定の地方で路線網を広げる程度。それが日本鉄道は関東から東北にかけての実に広い範囲に鉄道を走らせていたというのだから驚きである。そしてその仕掛け人のひとりが、渋沢栄一だったのだ。

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 さらに渋沢はこの日本鉄道を皮切りに、現在の日本の鉄道網の基礎となった多くの私鉄事業者の設立に関わっている。北海道では北海道炭礦鉄道や北海道鉄道、関東では現在の日光線にあたる日光鉄道、両毛線の両毛鉄道、さらには筑豊本線の筑豊鉄道、参宮線の参宮鉄道、身延線の富士身延鉄道……。

 もう手当たり次第といった具合である。どうしてこれだけ多くの鉄道会社設立に関わったのかというと、渋沢本人が鉄道の有用性に着目したという慧眼もあろうが当時の時代背景も関わっている。

 ◇渋沢はなぜ鉄道に魅力を感じたか

 1872年に新橋~横浜間で開業したことにはじまる日本の鉄道は、当初すべて“官設”で建設することを予定していた。けれども、明治政府は西南戦争などの影響で財政難に陥って、鉄道建設にお金をかける余力を失ってしまった。そこで、政府にも近い華族や財界の有力者が中心となって“私鉄”を設立して鉄道敷設を進めることになる。そしてすでに実業界で華々しく活躍していた渋沢も一役買うことになったのである。

 当時は自動車も、もちろん高速道路もなく、移動と言えば徒歩か鉄道という時代。さらに東京など一部の大都市に人口が集中していたわけでもなかったから、地方を走る長距離路線であってもかなり儲かっていた。きっと渋沢はそうした“商売”としての鉄道の魅力にも目をつけていたのかもしれない。

 ◇国に買収されてしまった私鉄――「東急」を作るまで

 ところが、日本鉄道をはじめとするこれらの鉄道会社は明治末にほとんど国有化されてしまう。国が一括して運営したほうが国益に叶うという理由であるが、それにも当初渋沢は猛反対している。何しろ一時は最初から国営だった東海道本線の払い下げを受けて“私鉄”として運営しようともくろんでいたこともあったほどだからそれも無理はない。
 が、結局途中から渋沢も国有化賛成に転じて、彼が設立に関わった多くの私鉄会社が国に買収されて国鉄を経て、今のJR各社の路線に引き継がれたのであった。

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 ここで渋沢と鉄道の関わりも終わり……と思うのは早合点。むしろここからが本領発揮というべきなのかもしれない。鉄道国有化の波が押し寄せてから十数年後の1918年。渋沢は「田園都市株式会社」という会社を起こした。この会社は郊外の理想的な住宅地である“田園都市”の開発が目的で、実際に東京南部の洗足に分譲地を建設している。ここまでなら鉄道とは何の関係もなさそうだ。

 ところが重要なのはこの先。郊外の住宅地から職場のある都心に通うためには鉄道が必要だ。そこで渋沢らはその鉄道も自分たちで作ってしまえとばかりに、新たな鉄道路線を建設した。そうして生まれたのが、目黒蒲田電鉄であった。そして目黒蒲田電鉄の経営は五島慶太に委ねられることになり、のちの東急目蒲線、そして現在の東急目黒線・多摩川線につながっている。

 ◇渋沢栄一が描いた「鉄道の未来図」

 東急をはじめとする今の私鉄各社は、鉄道事業だけでなく宅地開発やレジャー施設の運営などと一体となって収益を上げている。阪急電鉄の創始者である小林一三は「乗客は電車が創造する」という言葉を残し、私鉄経営のモデルを築いた。
 それと同じように、渋沢も「宅地開発で住民を増やす」→「鉄道を敷設してその住民の交通の便を満たす」→「デパートやレジャー施設を作って沿線住民の暮らしがその路線だけで完結するようにする」という私鉄経営の理想を抱いていたのかもしれない。

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 今の日本の鉄道網は、ざっくり言えばJR各社による主要都市を結ぶ中長距離路線と私鉄による都市部の通勤路線によって構成されている。
 そしてJRの中長距離路線ももとを辿れば明治時代前半に渋沢が盛んに設立に関わった私鉄各社にルーツがある。それらが国有化されてのち、これまた渋沢が設立した田園都市(つまりは東急)のような都市部の通勤を担う私鉄各社が勃興した。

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 こうした流れをみれば、日本の鉄道網は大実業家・渋沢栄一がそのほとんどを築いたといってもいいのかもしれない。今、我々の暮らしの根幹をなすとも言える便利な鉄道は、渋沢栄一の存在あってこそなのである。

 まあ、少し踏み込んで言えば、実業家の渋沢が鉄道経営に取り組んだのは“利益”が得られると踏んだから。もちろん社会貢献という意図もあろうが、カネが失われるばかりの赤字経営が見込まれるなら手を出さなかっただろう。

 ところが時代は過ぎて、今では地方の鉄道はほとんどが大赤字にあえぐ。もともと鉄道は維持コストが莫大で、よほど多くの人が乗らない限りは赤字になってしまう。
 民間実業家の立場で鉄道網構築に貢献したのが渋沢の“功”だとすれば、“鉄道は儲かるもの”というイメージを作ってしまったのは、渋沢の“罪”なのかもしれない。それももちろん、今の時代から見ればということではあるけれど。
鼠入 昌史
文春ONLINE 4/15(月)

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