※年表を見ると、オウム真理教が設立された1989年は、昭和が終わりを告げて平成に変わった転換の年でもありました。
 1980年代後半に始まったバブル景気も後退の兆しを見せ始め、経済崩壊の予感がもたらす社会不安の中で、「神仙の会」という前身を母体として生まれたのが、オウム真理教でした。

 平成の時代とともに生まれたオウムは、危機感を煽りながら信者や出家者をかき集めて洗脳と教団内の締め付けを強化。教団内殺人、隠蔽を繰り返すようになる。
 『1999年のハルマゲドン』の影響で終末思想が蔓延し、空前のオカルトブームも相俟ってオウムの妄想もピークに達したが、ハルマゲドンの予言がはずれたことで教団は「休眠宣言」をし、「正式見解」によって一連の事件を形式的に認め、荒唐無稽なオウム帝国は事実上崩壊。

 逮捕後、週1回(木曜日だったと記憶しています)、前後に20台近いパトカーを従えて首都高を渋滞させていた松本智津夫こと麻原彰晃は、取り調べのためのその“外出”を心待ちにしていたといいます。

 日本全体を一種の社会ヒステリー状態に巻き込んだオウムとはいったい何だったのか。
 こうやってみると、時代の節目と見事に重なっていますが、松本智津夫死刑囚らの処刑によって、オウムの背後に蠢いていたといわれる北朝鮮やロシア、暴力団、宗教の衣を着た左翼系の某巨大カルト、政治家との関係が解明されることなく、改元を前にして幕を閉じることになったわけです。

 破防法はなぜ適用されなかったのか、三つの団体に分裂した教団を今尚存続させている理由は何なのか。破防法適用を憲法違反として強硬に反対した「憲法学者」たちは、松本智津夫死刑囚らの処刑にもおそらく批判的だろうと推測します。

 毎日新聞は例によって天皇制や官僚批判と絡めて何か言いたいようですが、サリン事件で妻が犠牲になった河野義行氏が言うように、事件の真相はそれぞれの心のうちに永遠に秘められ、未解決部分を残したままピリオドが打たれました。

       文責:六合森 修 *

河野義行

 ◇教祖と疑似政府に見立てた「偽大臣」たちの同時処刑

 「オウム事件は平成を象徴する事件。平成のうちに区切りを付けるべきだ」--。
 オウム真理教の教団トップら7人の死刑が一斉に執行された後、なぜ今なのか、という疑問に対し、新聞各紙が異口同音に報じた「法務省幹部」の説明が引っかかる。

 確かに平成の間に起きた最も凶悪な事件の1つに違いないが、その処刑を平成のうちに終わらせるという理屈は、もっともらしいようで、よく考えれば合理的な根拠はない。

 昨年12月の皇室会議で天皇陛下の退位が来年4月30日と正式に決まり、世の中には平成時代を回顧する機運がある。残念ながら、一般的なイメージは芳しくない。
 大きな災害が相次ぎ、不可解な事件が多く、政治は不安定で、経済もバブル崩壊後の「失われた20年」とか国内総生産(GDP)世界第2位を中国に譲ったとか、意気上がらない。

 どれも天皇に直接の責任はないのに、象徴のお務めを誠実に果たされてきた在位期間の評価がこれでは、何だかお気の毒な気がしていた。オウム事件の幕引きを平成の終わりに間に合わせたいというストーリーには、この際、忌まわしい記憶はあれもこれも平成に押しつけて厄介払いしようといわんばかりの思惑を感じる。

 時代の災厄を一身に背負い、祓い清めることこそが「祭祀王」たる「日本国総神主」の役目であり、元号を改める意義もそこにあると言えばそれまでだが、法務官僚があえてそれを広言し、マスコミが当たり前のように報じ、世間もそういうものかと聞き流している様は、思いがけないところで、この国はやはり「天皇のくに」なのだなと再認識させた。

 「平成時代の総括」という話法は、官僚のレトリックにすぎない。
 7年前、事件の刑事裁判がいったん終結した直後、16年逃げていた共犯の教団元幹部が大晦日(おおみそか)に警察に出頭したのは、死刑を先送りさせる狙いがあった。再審請求や恩赦出願も続いていた。

 法務官僚には、これ以上、教団側の勝手を許せば行政の体面に関わるという焦りがあったはずだ。
 来年は皇室の慶事が続き、再来年は東京オリンピック・パラリンピックという世界の祭典がある。元幹部処刑後の警備体制も考慮すれば、今しかない。あくまで事務的なスケジュール管理の問題だった。

 それならそうと行政の冷徹な論理を淡々と説明すればよいわけで、なぜわざわざ「平成」という余計な修飾を持ち出したのか。
 法務官僚は、検事総長・最高検次長検事・全国八つの高等検察庁検事長の計10人が、任免に天皇の認証が必要な認証官である。一般職国家公務員では、事務の内閣官房副長官や外務省の大使・公使など並ぶ特別待遇だ。「天皇の官吏」の自意識は小さくない。

 教祖・松本智津夫(麻原彰晃)元死刑囚は「救済の名の下に日本国を支配して王となることを空想した」(04年の1審・東京地裁判決)。
 カルト教団の妄想とはいえ、国家を簒奪し「日本国の王」になるとは、「天皇に取って代わる」ことをも意味する。

 教祖と一緒に処刑された6人が、判決の日付順や事件の重大性や共犯関係といった純粋に司法の基準ではなく、教団を「疑似政府」に見立てた時の「大臣」の位で選ばれたのも異例だった。
「真正国家」の「天皇の官吏」たちは、「偽国王」による「ニセ国家」の企てを、過剰に敵視しているようにも見える。

 一度に7人が処刑された人数の多さは、1911(明治44)年の「大逆(幸徳)事件」を連想させた。
 社会主義者の幸徳秋水らが明治天皇暗殺を企てたという治安当局のでっち上げで起訴され、死刑判決24人のうち11人(翌日さらに女性1人)が処刑された政治弾圧である。
 大正に改元する直前だったタイミングも、今回と似ている。7年前は「大逆事件100周年」だったが、議論は低調だった。
毎日新聞 2018年7月22日

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 →信者数は現在、計約1650人

麻原彰晃




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