紙コップの発明と歴史(前編)
◆紙コップの発明と歴史(後編)
1916年までに、ペンシルベニア鉄道、ラッカワナ、シカゴ、イリノイセントラル、ニューヨークセントラルの一部の路線、およびプルマンカンパニーを含む全国の100を超える鉄道が、個別飲用カップカンパニーの製品の販売契約を結び、同社はすぐにドラッグストアとソーダファウンテンに市場を拡大。
第一次世界大戦(1914~1918)のインフルエンザの流行で多くの死亡者が出たため、細菌による感染症予防のために使い捨ての紙コップの需要がさらに高まる。
◇紙コップと第二次世界大戦
第二次世界大戦中のディキシー製品の成功は、紙コップ事業の隆盛をもたらし、ディキシーカップと新しく開発された携帯型水槽カップディスペンサーは、軍隊、赤十字、および戦争産業に優先的に提供された。
DIXIE CUP
◇「爆弾、砲弾、戦車、飛行機、紙コップとコンテナ」
公衆衛生活動の一環として世に登場してから紙コップは必要不可欠なものとなる。第一次世界大戦中も戦時の公衆衛生の向上が奨励され、紙コップ製造業者や政府当局から武器や飛行機、戦車などと同様に戦争道具と呼ばれた。
第二次世界大戦が始まり、紙コップとコンテナの製造は、戦争プラント、海軍基地、船、陸軍の駐屯地、病院などに組み込まれ、常に密集した防衛地域の公衆衛生向上の最前線にあり、以下のポスターによって周知徹底されていた。
DisposableAmerica
1940年の公衆衛生向上奨励ポスター(紙コップ)
◇印刷メディアは紙コップを第二次世界大戦おいてに不可欠なものとして掲載
1942年、紙コップと紙容器の総生産量の約50%は海軍の船、軍の基地、医療機関や歯科医院、軍隊の列車、海外の陸軍基地、海外での作戦など、1500万人に及ぶ戦争従事者が優先的に使用できるようにするため、愛国心が強いアメリカ人は古紙を節約し普段使いは控えていた。
cf: The Drinking Cup Law (飲用カップ法)
1911年までに、7つの州で共用コップが法律により廃止され、まもなく30州が追加される。
1912年、24の州で共用の飲用コップが法律で禁止される。
NY市では「公共の場所や施設、ホテル、劇場、工場、公会堂、公立学校、または鉄道駅などで水を飲むための一般的な共用コップ、または備え付けのコップの使用を禁止。
* *
・アメリカ進駐軍(1945~1952)
・東京裁判:1946年5月3日~1948年11月12日=米国主導
・A級戦犯処刑:1948年12月23日
【巣鴨プリズンの組織構成】
所長以下、700~800人で運営(1945~1952)
所長(大佐)、副所長(中佐)の下に置かれたオペレーション・オフィサー(指令)が各セクションを統括。
*教誨活動もオペレーション・オフィサー(長は少佐クラス)に入る。
→花山信勝教誨師は、外務省の外局(終戦連絡事務局)と司法省から任命された政府要員。
■下部の主なセクション(所属長はいずれも大尉クラス)、将校は25人程度。
・プリズン・オフィサー
監獄担当:1~3、4~6に分割され、監獄業務を担当。下部に多数の監視兵。
・サプライ・オフィサー:炊事、厨房担当。
・レコード・オフィサー:獄内の書類管理、検閲担当。
・エンジニア・オフィサー:営繕、労働担当。
・ガード・セクション:監視部門。
・ゲート・セクション:受付など。
◇東條英機らA級戦犯七名の死刑執行の報道-1948年12月24日
NYTimes 1948年12月24日「paper cups」
●年表
----------------------------------------------------
1945年8月30日――マッカーサー、厚木に到着
1945年9月2日――東京湾の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印
1945年9月4日――米軍、横浜刑務所の拘置所を接収。戦犯容疑者の収容開始。
1945年9月8日――米軍、東京に進駐。
1945年9月11日――戦犯容疑者逮捕指令。東條英機、自殺未遂。
1945年9月25日――巣鴨プリズン用地接収命令。
1945年9月27日――昭和天皇がマッカーサーを訪問。
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1945年10月2日――日比谷第一生命ビルでGHQが執務開始。
1945年10月2日――GHQが巣鴨プリズン周辺の民家の強制退去指令。
1945年10月7日――東條英機、病院から大森収容所へ移送
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1945年11月1日――東京拘置所接収、「巣鴨プリズン」と改称。
1945年11月14日――事務的実務開始。
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1946年4月29日――A級戦犯に起訴状手交。
1946年5月1日――巣鴨プリズン司令部設置。
1946年5月3日――東京裁判開始。
1946年12月8日――東條英機、大森収容所から巣鴨プリズンへ移送
----------------------------------------------------
1948年6月5日――すがも新聞創刊。
1948年8月――「米軍特設処刑室(13階段の処刑台)」設置
1948年11月12日――東京裁判にて東條英機ら25名に判決。
1948年12月23日――東條英機らA級戦犯七名の死刑執行。
*
検証① 検証② 検証③ 検証⑤ 検証⑥ 検証⑦
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1912年、24の州で共用の飲用コップが法律で禁止される。
NY市では「公共の場所や施設、ホテル、劇場、工場、公会堂、公立学校、または鉄道駅などで水を飲むための一般的な共用コップ、または備え付けのコップの使用を禁止。
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・アメリカ進駐軍(1945~1952)
・東京裁判:1946年5月3日~1948年11月12日=米国主導
・A級戦犯処刑:1948年12月23日
【巣鴨プリズンの組織構成】
所長以下、700~800人で運営(1945~1952)
所長(大佐)、副所長(中佐)の下に置かれたオペレーション・オフィサー(指令)が各セクションを統括。
*教誨活動もオペレーション・オフィサー(長は少佐クラス)に入る。
→花山信勝教誨師は、外務省の外局(終戦連絡事務局)と司法省から任命された政府要員。
■下部の主なセクション(所属長はいずれも大尉クラス)、将校は25人程度。
・プリズン・オフィサー
監獄担当:1~3、4~6に分割され、監獄業務を担当。下部に多数の監視兵。
・サプライ・オフィサー:炊事、厨房担当。
・レコード・オフィサー:獄内の書類管理、検閲担当。
・エンジニア・オフィサー:営繕、労働担当。
・ガード・セクション:監視部門。
・ゲート・セクション:受付など。
◇東條英機らA級戦犯七名の死刑執行の報道-1948年12月24日
NYTimes 1948年12月24日「paper cups」
●年表
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1945年8月30日――マッカーサー、厚木に到着
1945年9月2日――東京湾の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印
1945年9月4日――米軍、横浜刑務所の拘置所を接収。戦犯容疑者の収容開始。
1945年9月8日――米軍、東京に進駐。
1945年9月11日――戦犯容疑者逮捕指令。東條英機、自殺未遂。
1945年9月25日――巣鴨プリズン用地接収命令。
1945年9月27日――昭和天皇がマッカーサーを訪問。
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1945年10月2日――日比谷第一生命ビルでGHQが執務開始。
1945年10月2日――GHQが巣鴨プリズン周辺の民家の強制退去指令。
1945年10月7日――東條英機、病院から大森収容所へ移送
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1945年11月1日――東京拘置所接収、「巣鴨プリズン」と改称。
1945年11月14日――事務的実務開始。
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1946年4月29日――A級戦犯に起訴状手交。
1946年5月1日――巣鴨プリズン司令部設置。
1946年5月3日――東京裁判開始。
1946年12月8日――東條英機、大森収容所から巣鴨プリズンへ移送
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1948年6月5日――すがも新聞創刊。
1948年8月――「米軍特設処刑室(13階段の処刑台)」設置
1948年11月12日――東京裁判にて東條英機ら25名に判決。
1948年12月23日――東條英機らA級戦犯七名の死刑執行。
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検証① 検証② 検証③ 検証⑤ 検証⑥ 検証⑦
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