●松尾一郎氏が紙コップに関する1948年12月24日NYタイムズの記事を発見。
NYTimes 紙コップ
manacled hands」手錠を嵌められた手
参照①
参照②


国守衆

動画概要】
●映画『南京の真実』について
水島総氏:
「映画『南京の真実Ⅰ』を創った当時、中国が南京プロパガンダ映画を20本以上作っていたため、対抗映画として創らなければならないと思い立って企画した。今は3作目に取り組んでいる」


・・・・・◆◇◆ 水間政憲氏の説明の間違い ◆◇◆・・・・・
花山氏が赤ぶどう酒を袖に入れて × →米軍将校の差し入れたぶどう酒 
切子のグラス(ぐい呑み) × →進駐軍の紙コップ 
13階段を上がる手前の所 × →第一棟の一階一号室の仮の仏間 
別れの盃後、階段を上がった × →廊下に出て憲兵将校と握手、13号扉へ 

田中正明先生の直系、何度も聞いた話 × →「実は、出入りしていただけ」 
※「 中正明氏は、7人のA級戦犯が処刑された時は長野県にいた」(松尾氏談)

「当時、紙コップは使われていないはず」 × →米軍関係施設では使っていた 
「ド素人が!今後、公に映画監督を名乗るな」 × →日本映画監督協会・会員 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本映画監督協会

水島氏:
「映画製作のことについて何も知らないくせに、間違った知識をふりかざし、日本で唯一のカウンタープロパガンダ映画『南京の真実』(監督:水島総)について、中学生でも創らないようなデタラメな演出かつ無礼な映画というデマを流したうえ、『以後、監督と名乗るな』などと扱き下ろした。現在のような状況下でそんなことをすれば反日攻勢をかけている中共が喜ぶだけ。実に愚かな利敵行為である」

※『私は貝になりたい』(1959)は、Amazon primevideoで観ることができます。
私は貝になりたい
私は貝になりたい』(1958~1959)BC級戦犯の手記・書簡集をドラマ&映画化

●「紙コップ」の問題
水島氏:
「なぜ紙コップなのか――いろいろ知ったかぶって、『いちばんしみじみするところ。こっそり袖に忍ばせた切子のグラスを出して《13階段》下で別れを惜しむシーン』などと言ってたようだが、まったくのデマである」

「当時、進駐軍の占領下にあったという時代背景、また拘置所という環境下で、自殺を防ぐ意味でも施設内においてガラスや鋭利な金属類は一切使わせなかった。とくに逮捕時(1945年9月11日)に自殺を図った東条英機閣下は、寝るときも煌々と照明をつけたまま、拷問にも近い厳しい監視下に置かれていたから尚更である」

「《13階段》下でぶどう酒を飲むなどというのもありえない。(我々制作スタッフは)しかるべき場所(仮の仏間)で最期の儀式を行い、天皇陛下万歳!と言った場面もきちんと再現した」

「紙コップのことだけでなく、『中国人3000人を特別入国させていた!』という発言についても、いい加減な取材というか、ろくに調べもしないままデマを流しておきながら、『スクープ!』などと煽り立て、明らかな間違いだと指摘されたときに、比喩だの問題提起だのと話をすり替えて逃げる。歪曲と捏造は中共の卑劣な手法と全く同じである」

米進駐軍(1945~1952)への納品のためにオンスが基準の ップ が普及
大東亜戦争と国際裁判
大東亜戦争と国際裁判』(小森白監督、1959年

        *       *

●松井石根大将の私設秘書、田中正明氏について
水島氏:
「田中さんについても、自分は直系の人間とかなんとか言ってるようだが、ただ出入りしてただけじゃないか」

※読者の方から情報をいただきましたのでご紹介します。

松尾


●紙コップについての記述例

東洋英和女学院資料室委員会 会報誌(2/12p)
 昭和20年の秋、 進駐した米軍を不純な非行に走らせないために、 キリスト教の団体を通して健全な国際交流をはかろうではないかという“おたっし”がどこからか出て、 英和(東洋英和女学院)の正面玄関に米軍の大きなトラックが横づけになり、 英語に堪能な最長老の吉本てう先生 (当時50才位)をはじめとする英語の教師達を先頭に、 なにがしかの餌にありつけるかも知れないというあさましい好奇心だけの末端の私迄全員がトラックによじ登り赤坂辺の接収された邸に行ったことが一度だけあった。

 そこは既に別のミッションスクールからの先生達もいて、 優雅な音楽の中でアメリカ兵とペラペラ喋ったりダンスをしていた。 英語もダンスもできない私は壁に張りついて、 珍しい紙コップでコーヒーを飲んだり、ビスケットよりおいしいクッキースを齧ったりしていた。 


アメリカ熔接學會のピアス副会長を訪ねて 
昭和23年1月 溶接學會誌(1/8p)
(抜粋)
『よ うこそ,貴 方々は コカ・コラを飮み ますか』 と云 ふが早 いか もう廓下 に出て 行 つた.4の 瓶 をま とめて兩 方の手 で もつて這入つ て來 て,紙コップの一つ一つ についで くれて私逹 の前 に出 して か ら,『 さて!』 と云 ふ樣 に ドッカ リと廻轉椅子 に腰 を下 した .
紙コップの壁 を傳 はつ てコ カ・コラの泡がかすか な音 をたてゝ ゐ る.靜 か な一時.――


紙コップの歴史 木村容器(株)

アメリカ進駐軍(1945~1952)

※東京裁判:米国主導 ⇒1946年5月3日から1948年11月12日
※1948年当時、アメリカ進駐軍は紙コップを使っていた。巣鴨プリズン(米軍施設)で行われた死刑執行時も終始MPが立ち合っている。

戦前の紙コップ
これは戦前の紙コップ(経木タイプ)ですがこれもあまり実物は見かけません。紙コップの研究というのも一つのジャンルとして成立すると思いますが、こういう消耗品は案外出てこず、なかなか険しい道かもしれません。

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◆関連記事
【巣鴨プリズン】東條英機・広田弘毅ら7人、絞首刑執行(1948) 「紙コップに注がれたブドウ酒を……」 →東條が希望した「最後の一ぱい」は日本酒だったが、米軍の施設には日本酒の用意はなかったため、急遽ぶどう酒が「最後の一ぱい」として用意された

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